2011年12月10日土曜日

駒形克哉氏による古典定型詩の韻律に関する解説を記憶を頼りに書いてみる。

見に行った日:2011.12.10


会期:2011.12.10
会場:20202

古屋俊彦展@20202 トークイベントにて


 ◎イタリア語の定型詩
11音節8行詩(ルネサンスの頃に書かれた詩の形式)
  • 11音節からなる1行が8行で構成される
  • すべての行について、10音節目に一番強いアクセントが置かれる
  • イタリア語の単語は通常、終わりから2音節目にアクセントが置かれるため、10音節目にアクセントを置くようにすれば、自然と11音節で単語の区切りとなる。
  • 終わりから2番目でない音節にアクセントが置かれる単語,というのも例外的だが存在し、そのような単語がが使われる場合には1行が12音節、13音節となることもあり得る。→【勝手解釈】10音節目にアクセント、ということが最優先する
  • 2番目に強いアクセントが置かれる音節の位置には2種類ある。 6音節目に置かれる場合、「大様式」と言われ、公的な感じ、荘厳な感じ、とされる。 4音節目に置かれる場合、「小様式」と言われ、私的な感じ、身近な感じ、とされる。
  • 各行の終わりの音は8行につき3種類で構成する。A,B,Cの3種を、A B A B A B C C と配する形式。
  • 1行目、3行目、5行目が同じ音で終わり、2行目、4行目、6行目は1、3、5行目とは別の、同じ音で終わる。7行目、8行目は、また別の、同じ音で終わる。

◎ラテン語の定型詩
ヘクサメトロン
  • 長音と短音の組み合わせによる音韻。
  • 長音=2分音符、短音=4分音符 として6小節で読む【駒形氏独自の説明;一般的なラテン語の教科書等では、このような楽譜による説明はしない】
|長 短短|長 短短|長 短短|長 短短|長 短短|長 長|

  • 「短短」の部分は「長」でも置き換え可能。
  • 5小節目にあたるところは「長 短短」とならなければならない。
  • 最後の「長 長」は「長 短」となっても構わないが「長 短短」とはならない。

◎定型詩の形式は他にもいろいろある。


記:2011.12.11 記憶を頼りに記述。
改:2011.12.13 駒形氏に見ていただきご指摘いただいた点を修正加筆。

(Facebookより転載)

2011年11月21日月曜日

中ザワヒデキ油彩新作展「かなきり声の風景」

見に行った日:2011.11.21


会期:2011.11.15〜12.2
会場:ギャラリーセラー



「かなきり声の風景」は、中ザワヒデキの油彩画のタイトル、いや、正確に言えば、油彩新作展のタイトルである。今回展示された各油彩画のタイトルは「赤い」というのがタイトルに付いていて、「赤いかなきり声の風景」というようなのである(ギャラリーにあった作品リストによれば)。

見れば、確かにその画面には赤が溢れている。しかもいろんな赤だ。しかし、その赤は何の色なのか。赤く燃える太陽、といっても、こんな色ではないし、夕陽の赤でもなければ、赤ワインの赤でも,赤いリンゴの赤でもない。写実的な絵画でないことは明らかにわかる。だから、その赤が特定の何かの色だと解釈する方が間違いかもしれない。それでも、こんなに赤い色ばかり並ぶと、なぜ赤いのか、と考えてしまう。

何か、赤いモノをあてがって、私は安心したいのかもしれない。それほどまでに不穏な赤色なのである。暖かみを感じさせる色=暖色だと言われるが、これらの赤は、暖かみなどという緩やかな状態ではなく、何か沸々と煮えたぎったような熱さを感じさせる。

そこまで考えてようやく辿り着いた。この赤は、血の赤ではないか、と。そしてそれはふつふつと沸いているのである。何かと戦うように。あるいは何とも戦わないために。

中ザワは、美術史に造詣が深い、というか,そんな「造詣が深い」だなんて言葉では軽過ぎて不適切なほどに、一貫した美術史観をずっと持っている。近現代の美術史は「表現主義→反芸術→超現実主義」の繰り返しである、というものである。中ザワ自身の表現スタイルも、まるでこの美術史を辿っているかのように、私には思われる。

画業の初期、学生時代には油彩も描いていたようだが、主にはアクリル画の時代。マチエールに強くこだわったこの時期の作品は表現主義的ではなかったか。

その後、芸術に反旗を翻し(まさに反芸術)、「イラストレーター」と自称していた時代。

そして再び美術の世界に戻ってきた時には、コンセプチュアルな「方法」という概念を掲げていた。かつてのシュルレアリストたちが「宣言」として、そのコンセプトを発表したように、「方法」も「宣言」されて開始された。

ここまでの時期は、美術史上に現れた、多くの「主義」と同様に、それ以前の表現や主張を否定することにより、新しい表現を作り上げてきた。だから、そこで、前の時期に戻る、などということは有り得なかったはずである。

しかし、「新・方法」の登場あたりから、中ザワの姿勢は変化してきたように思う。「新・方法」は、「方法」でやり得なかったことをやっているが、ある意味「方法」のやり直しである。以前の表現を否定して次の表現を獲得してきた、それまでのやり方のもとでは、有り得ないことである。「方法」として行ったが不本意だったところを批判することがあるのは、過去を否定するやり方の断片がまだ残っているのかもしれなかったが、原則的には「新・方法」は「方法」を否定していない。

「新・方法」が順調な活動をするようになると、中ザワは自己回帰のようなことを始めるようになる。美術界への反旗であった(と私は解釈していた)「バカCG」を改めて「ニュー・バカCG」を始めたのには驚かされた。中ザワは「イラストレーター」時代を否定していなかったが、とは言え、現在の「美術家」中ザワの仕事とは一線を引いているのだと、私は思っていたからだ。

そしてさらに、今度は「油彩画」と来た! 中ザワの「美術家」としての初期の作品には、アクリル絵画があったということは、以前の展覧会で見て知ってはいた。そのアクリル画以前には油彩も描いていた、と、話には聞いていた。が。そこまで戻るか! と、思ったのである。

これはたいへんなことになる。

かつては相容れなかった/相容れようとしなかった/相容れさせなかったものたちを、すべて、自身のものとして、取り込んで/飲み込んでしまおうとしている。それは、それぞれが、あるひとつの概念や主張であるところの「-主義」を、すべて否定/肯定しなければ突き進めない道である。とんでもない茨の道に足を踏み入れてしまったのではないか、中ザワは。

そのことを「多様式主義」などと軽く言ってのける。が、それこそがこれまでの数多の「-主義(ism)」が生まれては消え、無数の「-主義者(ist)」たちがなし得なかったことではないか。そこに、挑んでいるのである。おそらくは意識的に。

「-主義(ism)」を以て「-主義(ism)」を制す。

おそらく、それはさまざまな「-主義(ism)」に精通した中ザワにしかできないことだろう。あるいは10年くらい遅れて、それをできる人が現れるかもしれない。「新・方法」が、10年遅れてきた「方法」と言われたように。

さて、話を「赤」に戻そう。
そんな「茨の道」だからこそ「かなきり声」があり、意識的/無意識的に、その困難に挑む覚悟や勢いが、この油彩画の「赤」には溢れている/潜んでいるのではあるまいか。

2011年8月27日土曜日

新・方法「アップローディング・イヴェント」

開催日:2011.8.27 0:00〜23:59(webサイト上での開催)


会期:2011.8.27 0:00〜23:59
会場:http://7x7whitebell.net/new-method/up.html(現在は存在しないサイト)


新・方法からメールが来た。

1964年10月10日、ハイレッド・センターはドロッピング・イヴェントを行った。
2011年8月27日、「新・方法」はアップローディング・イヴェントを行う。

とあった。「アップローディング・イヴェント」って何するんだろう? 想像つかなかった。引き合いに出しているのは、ハイレッド・センターである。つまらんわけはないだろう。
当日を楽しみに待つことにした。

8月27日0:00〜23:59開催とのことで、サイトが開くのは27日の0時。
仕事が圧してしまって、26日の夜中まで及んでしまったため、私がサイトにアクセスできたのは開始から30分後くらいだった。そこには、この間、そこに「アップロード」されたファイルのリストが並んでおり、続々とファイルがアップロードされていた。ただ、それだけである。しかし、たくさんの人が、そこに集っていることは感じられた。誰でも、何でも、アップロードできるとのことだった(技術的に、仕様上の制限はあったのだがそれは明示されていなかった)。アップロードされたファイルは見ることができるので見てみる。確かにいろんなファイルがアップロードされている。アップロードするファイル数の制限もないようなので、一人で複数ファイルアップロードしている人も多いようだ。というか、一度アップすると、またアップしたくなるようなのだ。そんなものかね、と思いながら、私も1つ、アップロードしてみた。無事送られて、リストに追加された。それだけのことなのだが、なんだか爽快な気分になった。

SEという仕事を経て、現在もwebサイトの管理などしている私にとっては、通常アップロードという行為は、重要な役割や意味を持つとされる行為であり、若干の緊張を伴う行為である。しかし、この「アップローディング・イヴェント」では、その「アップロード」という行為には、「そこに参加する」という役割と意味しかない。「参加すること」は任意、つまり、それぞれ本人の意思に任されていることであり、それ以外の意味や役目からは解放されている。つまりここでの「アップロード」という行為は、意味を剥奪された、いわば「純粋なアップロード」である。その「純粋なアップロード」という行為を初めて体験して感じたのは、「アップロードってこんなに気持ちよいものだったのか!」ということだった。とにかく、気持ちいいのである、だから、またアップロードしたくなってしまうのだ。ここに参加しているみんなもそうなんだろう、と確信した。快感でなけりゃ、こんなにみんなアップロードしないだろう。

そしてこの「アップロード」という行為の意味のなさが、参加者たちに不思議な連帯感を与えているようにも感じられた。みんなで大勢で集まって、無意味な行為を繰り返す。それはたいへんな快感を得られる行為なのである。通常は、何かを「得る」ことが快感とされるが、それは「得られないものを得る」からである。通常は「何かを得る」ための行為を「何も得ることもなく」行う、そこにある種の清々しさのような快感があるのだ。

諸々「自粛」ムードの昨今には言いにくいことなのだが、テクノロジーの発展には、ある種の「無駄遣い」が必要なのではないか、と、私はかつてより考えている。「そんなことして何になるの」と言われながら、無駄と思われるようなことに新しい技術を試してみることで、その技術を理解し、使いこなせるようになっていったりする、ということは、技術者にとってはよくあることだと思う。新しい技術の発展が、「テクノロジーの無駄遣い」の結果である、ということも少なくないのではないだろうか。あるいは、重要なところではよくわかった技術(いわゆる「枯れた技術」)を使う、という考え方がある。最初から、重要な責務のあるところで新技術を試す、なんて、恐ろしい、というわけだ。

そんなことを考えながら、「アップローディング・イヴェント」を眺めてみた。そこで起こっていることは、まさしく「テクノロジーの無駄遣い」である。そして、イヴェント終了時にアップロードされたファイルはもちろん、サイトごと抹消されてしまう、ということで、その「無駄遣い」ぶりは徹底されたものとなった。

おそらく、「アップローディング・イヴェント」に参加した人たちは、「アップロードの快楽」という新たな感覚に気付かされたはずである。そして、その「アップロードの快楽」に気づき、それを楽しんだ人たちがいた、ということは、おそらく「アップロード」という技術の世界に新しい地平をもたらすことになり得るのではないだろうか。

(記:2011.10.13)

2011年8月15日月曜日

平間貴大 無作品作品展

見に行った日:2011.8.13


会期:2011.8.8-9.3
会場:20202


平間は鶯セヴーチとの2人展において「無作品」作品を発表していたので、「無作品」がどんな作品かを知らないわけではなかった。「無作品」でどうやって展覧会にするんだろう? と思いながら、会場となっている 20202に入った。

作品リストと平間のステートメントが置かれている。それだけである。

まっすぐに「無作品」ということと向き合い、そのままを発表した、その明快さは痛快であり、その姿勢は爽快だ。この明快さ・痛快さ・爽快さは、「無作品」を発表することへの平間の確信と覚悟に裏打ちされている。だから、ここには確かに作品が存在するし、これは展覧会として成立している。

…ふと思った。「There is no works. 」と「There isn't works. 」は、通常、同意であるとされるが、これらは区別されなければならないのではないか、と。

いや、もう、ぶっちゃけて言えば、暑い中、ギャラリーへ汗だくになって辿り着いてみれば、カラ〜ンと何もないって、、、もう、豪快に笑うしかないやろ(笑)

2011年8月13日土曜日

堀浩哉展「起源—naked place」

見に行った日:2011.8.13


会期:2011.7.20〜8.20
会場:ミヅマアートギャラリー



「記憶するために記憶する」と繰り返し書き付けられたペインティングからは、何やら執念のようなものが溢れ出してくるようだった。堀さん本人から凝視されたらたいていの人は、もはや目をそらすこともできず、その場から動けなくなるだろう。作品もまるで本人がそこにいるようなたたずまいだ。私はしばらくその絵から目を離すことができなくなり、その場に立ち尽くしていた。

見そびれたパフォーマンスの映像も上映されていて、最初から最後まで見ることができた。映像で見ているだけですんごい迫力である。やっていることは変わらない。今回はロープで身体をぐるぐる巻きにしていたが、以前パフォーマンスを見たときは、テープでぐるぐる巻きにされてたような記憶がある(笑)。これくらい徹底的に同じことをやり続ける、そのエネルギーに驚愕する。そして残念なのか幸せなのかわからないが、この人に「もう、よろしいんじゃないですか」とは言えない現実がある。この人の問いかけることは未だに有効だからだ。問いかける内容も問いかける態度も、この人以上にきっちりと力強く、粘り強い人を私は知らない。

「お前は何をしている? どう生きている? 何に縛られている? 縛られてても歩け!前に進め!」

そんな声が聞こえて、また、私は答えに詰まる。毎回、今度はちゃんと答えられるようになろう、と思っているのに。宿題を終えることができなかった小学生のようにしゅんとしなだれて、ギャラリーを出て歩き始めると、前方から堀さん本人がやってくるではないか。しかし、声をかけ損ねてしまった。だって、宿題終わってないんだもん(笑)メッセージはビンビンに受け取っているので、堪忍して〜、と心の中で叫びつつ。

2011年8月9日火曜日

Survival Projection 2011

見に行った日:2011.8.9


会期:2011.8.5, 8.9
会場:新港ピア壁面


開始時間をだいぶ過ぎてから会場に到着。しかし問題はなかったようだ。
開催時間中、どうやら映像+音はリピートされるようだ。始まりから終わりまで、ストーリーがあるようなものかと思っていたが、そうではないようだ。終わりも始まりもない感じ。ただ、そのことが、会場から緊張感・緊迫感を奪ってしまったように感じなくもなかった。繰り返されるメッセージに見ている側が慣れてきてしまう。いつ見てもいつ抜けても大丈夫、だから集中しなくても、何かしながらでも、お喋りしながらでも見ていられる。いや、見てなくてもよいのだ。
なんだか、その緊迫感のなさにちょっと興ざめしていたところへ、映像が途切れる現象が。時間的にも良い時間だったので、そこで終わりになってしまったようだが、終わりかどうかのはっきりとしたアナウンスもない。が、みな、帰り始めた。う〜ん、何かしまらないなぁ。そういうもの? 期待し過ぎたかなぁ。

そんな否定的な気分で内容を振り返っても、否定的になってしまう。
愚痴っぽくなるのでひとつだけ。

震災や戦争、暴動などでの被害者の声を使うっていうのは、ある面、ズルいなあと思ってしまった。その声は真実だから批評のしようがない。そしてそういう声を使っているが故に、その作品について、否定的な評価をすることは難しい。その真実の声まで否定してしまうように感じられるからだ。こういう作品はどう批評したらいいんだろう。

2011年8月8日月曜日

鶯セヴーチ・平間貴大2人展

見に行った日:2011.8.6


会期:2011.7.28〜8.6
会場:20202(代々木八幡)
詳細:http://www.shinrin20202.jp/


鶯セヴーチの個展と、平間貴大の個展とのあいだの実質1週間ほどが、鶯・平間の2人展になるとのことだった。最終日になってしまったが観ることができた。
おそらく、この2人展を観た人の多くが「?」を抱いて帰路についたのではあるまいか。私は次の2つの疑問の間をしばらく逡巡していた。

・2人展というけど、事実上、鶯展じゃないの?
・2人展というけど、実際は、平間展じゃないの?

かなり逡巡したのちに、これら2つの疑問を抱かせるからこそ、これは2人展なのだという結論に辿り着いた。鶯展でもあり、平間展でもある。だからこそ、2人展だ。

本展では、鶯は、先日までの個展とは異なった作品を展示。鶯の作品や平間が描いた画をプリントしたバッグは1点ずつ異なる絵柄で15点くらいあったか、いつの間に作ったのやら、この作家の仕事の速さには改めて驚かされる。さらに、また、鶯の新しいタイプの作品が! 今度は「詩」である。何だか、意味がわかるようなわからないような詩である。私がここに書いたテキストを元にして作った「詩」、というのを見せてもらい(この日、朗読パフォーマンスがあった)、文章の絶妙な壊れ方に感心した。これはどうやって作るのだろう?と尋ねてみると、機械翻訳を、様々な形で3回通した結果である、という。面白い道具を見つけるものだ..というか、鶯は、最新技術により生み出されたツールを、思いもよらないやり方で使いこなしてしまう。そもそも彼女が展覧会を開くきっかけとなったのが、iPhoneのお絵描きソフトとの出会いであり、その見事な使いこなし具合と、思いもよらない使い方で周囲を驚かせたことであったように。そしてそのような道具たちとの出会いに、常に見え隠れしているのが、平間の存在である。そもそも鶯が絵を描くようになったのは、平間の影響というか、平間にそそのかされて、であるし、翻訳詩の内容は平間がどうした、というものである。そのように、鶯の作品には常に平間の存在が感じられるのではあるが、本展では明示的に平間の作品と絡み、果敢にも平間の存在とがっぷり四つに組んだ作品を展示していた。その果敢さと大胆さにおいて、本展での鶯のパワーは圧倒的で、本展を事実上、鶯展である、と感じさせるほどである。しかも、平間の作品は見当たらないのだから。

一方、平間は「無作品」作品ばかり、8点を発表した。会場の入口に控えめに置かれた、その作品リストに気がつかなければ、「平間の作品はどこにあった?」と帰路悩まされることになるだろう。そんな危うい存在なのが「無作品」作品であるが、作品リストにより、その存在が明らかになった途端に、動かし難い存在になってくるのだ。そこには何も無いように見える。しかし、それは存在する。ただし、誰もそれを示すことはできない。また、誰もそれを持ち帰ることはできない。この展覧会で、いま、ここにしか存在しない。と、思うと、この展覧会の空間そのものが、あるいは展覧会そのものが、平間の作品のようにも思えてくる。鶯のすべての作品を通じて、平間はその存在を露にする。平間の存在なくしては、この展覧会は成立しない。そういう意味では、本展は平間展である。たとえ、平間の作品が見当たらなかったとしても。

さて、2人展の後は、いよいよ平間の個展だそうである。どうなることやら。

2011年7月30日土曜日

東海道五十三次—広重から現代作家まで

見に行った日:2011.7.30


会期:2011.4.24〜8.30
会場:ベルナール・ビュッフェ美術館


「東海道」というと大きなテーマで、ヴァンジ彫刻庭園美術館の「山口・竹﨑展」と同時開催の展覧会。同じ「クレマチスの丘」内の美術館だから、やれる企画なのかもしれないけど、おもしろい試みだ。
予定に入れてなかったが、観に行ってみた。

これが、とてもおもしろい。
広重のおなじみ「東海道五十三次」を53点、改めて見ると、細かいところが面白いし、まとめて観ることで、これが作られた頃の人たちの、旅へのあこがれや期待感がよくわかる気がした。そして、棟方志功の「東海道棟方版画」、水木しげるの「妖怪道五十三次」と同じようなテーマの作品を眺めることで、共通するものも、それぞれの違いも見えてくる。さらに、さっき見た、山口晃の絵とはいろんなところで響き合う。「1粒で2度美味しい」という感じで、堪能して、お腹いっぱい、満足度たっぷり。良い企画だった。

東海道 新風景:山口晃・竹﨑和征

見に行った日:2011.7.30


会期:2011.4.24〜8.30
会場:ヴァンジ彫刻庭園美術館


竹﨑さんの作品は初めて見た。小さなTVと冷蔵庫と、ごちゃごちゃといろんなものが置かれたインスタレーションと、壁に数点の平面作品。ペイントもしているけど、コラージュみたいな感じ。大きな彫刻がどーん、どーんと置かれているこの美術館全体の展示とはまったく異質で対照的な感じだけれど、整然としていない、ということが、何か、ほっこりとした安心感というか、気持ちをラクにさせてくれるようだ。

山口さんは、この展覧会のために、わざわざ三島の街を訪れて、その上で、三島のどんな情景を描くかを決めて制作したそうだ。1点を除き、新作ばかりだ。捕まえどころが上手いんだなぁ、とそれらを見て思う。

新作でなかった1点も、普段はこの美術館の近くにあるがんセンターに飾られているもので、なかなか見る機会のないレアなものだ。がんセンターに置かれるということで、病人の登場人物がいる。大きな作品でそこに緻密に描かれているので、見応えはたっぷり。こんな楽しい絵があるがんセンターなら、通っちゃうかも。

そうそう、この、がんセンターのための絵が展示してある部屋にもうひとつ、作品キャプションがあった。部屋の奥の方に椅子が置いてあり、「ここに座ると「見立て富士」が見えます」というような説明が添えられていた。椅子に座ってみた。視界を探すが、はて? 「見立て富士」はどこに?? しばらく座って、あちこち眺めてみるのだが、それらしいものは見当たらない。というか、どんなものなんだ? ともかく作品らしいものは目に入ってこないし、わからない。降参だ〜。

そのまま諦めて帰ろうと思ったが、やっぱり気になる... 思い切って、さっき、絵の解説をしてくれた館の人?ボランティア?どういう人かわからないけど、その人に聞いてみた。そしたら教えてくれましたよ..
「えっ、そんなところに...」
教えてもらって、改めて力が抜けた。これがわかんなかったのかー。と、謎が解けてすっきりした一方、ちょっと凹む。わかってしまえば「なんで気づかなかったんだろう」というような場所だった。やられました。全面降伏!


2011年7月29日金曜日

山本基「しろきもりへ—現世の杜・常世の杜」

見に行った日:2011.7.29


会期:2011.7.30〜2012.3.11
会場:箱根彫刻の森美術館


入口から1階、2階へと進んでいくうちに、少しずつ少しずつ、基さんワールドへ誘導していく、計算し尽くされた徹底的に美しい展示。

入口の使いにくい展示スペース。人の通る道だけを空けて、それ以外は岩塩で日本庭園。これまでの基さんの作品とはちょっと傾向が違うような、でも、違和感はない。竜安寺の石庭を連想させるそれは、基さんの作品の凛とした空気感や静寂さをわかりやすく示してくれる。

そして1階。床から天井まで積み上げられた塩のブロック。さらさらとした塩とは全く印象の違う、固められた塩のブロックは、塩という物質の強さを感じさせる。

それから、気になったのが、この1階の壁面の平面作品だ。これまでに見たことないタイプの作品じゃないだろうか。細かい渦巻きを書き込んだ小さなドローイング作品を樹脂で固めたものが1点。対面の壁に、謎の渦巻きが写り込んでいる写真作品。何を撮ったんだろう、宇宙のようでもあり、海の渦潮のようでもあり、ミクロにもマクロにも見える....。しばらく眺めていたがわからない。降参だ!あとで基さんに訊いてみよう。

2階に上がってみると、息をのむような広大かつ繊細な塩の「絵画」。「迷路」ではない。何か有機的なものが描かれているようにも感じる。繊細さはそのままに、新たな表現に向かいつつあることを感じさせる。足場が置かれ、床上3メートルくらいまで上がることができた。上から見下ろしてみた塩の絵画は塩の結晶のキラキラした白さと、その高さに、アタマはクラクラ、吸い込まれそうだった。吸い込まれないうちに、と、早々に降りてきたことは言うまでもない。

その後、1階の作品の謎を解くべく、質問させていただいた。
「壁に1点あった、あのドローイングを写真に撮って、反転させたんだよ」
という答えだった。うへー、これはヤラレた! 答えはそこにあったのに、気づかなかったよ〜!

そうそう、レセプションの作家挨拶の際、基さん、感極まって言葉に詰まっていた。涙していたようにも見えた。そんな基さん見たの、初めてだ。現地制作するタイプの作家だから、いろいろあってもおかしくないのだが、普段は感情をあまり露にしない人だ。この展覧会に向けての思い入れと、展覧会の完成度への誇りとが、よく伝わってきた。きっと、この展覧会は、この先、常に参照されるようなものになるんじゃないかなぁ。「あの展覧会がきっかけだったよね/はじまりだったよね」というふうに。


写真撮影:yum Haruki

2011年7月25日月曜日

田中功起個展「雪玉と石のあいだにある場所で」

見に行った日:2011.7.23


会期:2011.7.16-8.20
会場:青山|目黒
詳細:http://aoyama.s352.xrea.com/exhibition/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%8A%9F%E8%B5%B7-in-a-place-between-snow-balls-and-stones


展覧会初日の1週間後の23日がオープニングレセプション、との案内だったので、23日に行ってみた。遅い時間に行ったので、宴たけなわ、ギャラリー前の路上でさえ人で溢れていた。それでも作品はゆっくりと見ることができた。壁にはここの場所で今とはちょっと違う位置に置かれた作品の写真のプリントアウトがラフに貼られている。一度はこうして展示したってことなのかな? そのラフな感じが、進行形な感じと、絶妙なユルさを演出している。

メインに据えられたのはビデオ作品。フリーマーケットに参加した顛末を収めたものだ。ヤシの葉をフリマに出店するも売れない、売れない…。アドバイスめいたふうに好き勝手なことを言い放っていく通りすがりの人たち。ヤシの葉を売ってる奴はあんまり見たことないけれど、その他はよく見かける光景だ。そして、フリマ主催者側の係員らしき人が巡回してきて、撤退を命ぜられるところで、このストーリーは終わる。どうにもならなかったものが、どうにもできなくなって、終わってしまうのだ。しかも、撤退する様子も撤退後の様子も映像にはない。だから、ほんとはどうしたか、どうなったかはわからない。さっきまでずっと見守っていた「あれ」はどうなっちまったんだ? 観客だけが映像上のストーリーの中に取り残される。その「取り残された感」が何とも居心地悪く、また、それに気づかされて気恥ずかしい気分にもなり、「取り残されてなんかいないわよ」てなフリをして、繰り返される映像を観ている自分にも、また居心地悪くなり…。いや、でもね。この居心地悪い宙ぶらりんにさせられてしまう感じ。これだよこれ。田中功起くんの作品の気持ちの良い居心地の悪さ、というか、居心地の悪い宙ぶらりんの気持ちよさ(うう、何言ってんだか、自分でもわからなくなってきた)。表面上は異なる作品だが、大事なことは変わっちゃいない。失ってはいけないものは失わずに持ち続けている。そう思えたら、何かとても嬉しくなった。そしたら、これまでの作品がアタマの中でリワインド&リピートされ始めた。おっと、現場の作品を観なくちゃ。そう思って、見遣った壁面には、トロントの屋外でゼリーを固めるって作品が。大声で笑いそうになった。いいぞいいぞ〜! やっぱ、このヒト追っかけるの、止めらんないわ(笑)

そういえば、ご本人のお姿を拝見するのは、すんごい久しぶりである。まだ彼が学生の頃、世田谷美術館の中の市民ギャラリーで展覧会をしていたときにお会いしたきりだったのだ。そのことを、ご挨拶した時に伝えたら、とても驚かれて、「あれは長谷川祐子さんの企画でやらせてもらえたんだけど、結局長谷川さん観てくれなかったんだよね」なんて話を聞かせてくれた。そうだ、たぶん、私は長谷川さんから聞いて、行ったんじゃなかったかなぁ。ま、もはやそれは笑い話。ていうか、そのことがまた、彼の作品のような出来事じゃないか、と、帰り道でそんなことを考えて思い出し笑い。

2011年7月22日金曜日

鶯セヴーチ作品展

見に行った日:2011.7.22


会期:2011.7.7〜7.26
会場:20202(代々木八幡)
詳細:http://www.shinrin20202.jp/


鶯セヴーチ嬢は、2010年12月10日からiPhoneのお絵描きソフトで画を描くようになったそうだ。画を描いてはtwitpicにアップし続けていて(現在も)、描きためた画と撮りためた写真を、初めて展覧会の形で発表したのが今回の展覧会。多作なアーティストらしく、会場の壁は、彼女の作品である画と写真で埋め尽くされている(トイレの壁さえも)。その量も圧巻ではあったし、改めて紙に出力して並べてみた時に見えてくるものもあったとは思う。

しかし、それらの画よりも、私の目を奪い、惹き付けて離さなかったのは、写真作品の方だった。これらの写真も、iPhoneのカメラで撮ったのだと以前彼女は話していたが、被写体はほぼ2種類。1つは、平間貴大氏を撮ったもの。もう1つは、食べ物を至近距離で撮影したもの。そしてこの2種類の写真が、交互に並べられている。平間氏を被写体とした写真は、寝顔まで含めたごく自然な表情の、普段の平間氏の姿が伺えるスナップショット。それだけ見れば、撮影者が被写体のプライベート領域にかなり深く入り込んでいるとは思うけれども、普段の姿を良く捉えているね、と微笑ましく眺めていられるスナップ写真だ。ところが、それらのスナップ写真の間に置かれた、食べ物の写真は、「何の写真だろう?」と思ってしまうくらいの至近距離で撮影されていて、そのせいなのか、他にも何か工夫しているのかもしれないが、妙に生々しく、艶かしく、エロティックだ。そんな食べ物の写真と交互に並べられた時、平間氏を撮った写真は、被写体と撮影者の距離の無さを露呈し始める。食べ物を至近距離で撮影したように、平間氏のプライベートへの至近距離に撮影者はその立ち位置を置いている/置くことができることを、それらの写真が語り始める。そのことによって、ごく日常のスナップショットだったはずの写真が、妙なエロスを持って立ち現れてくるのだ。まるで、日常のスナップを撮影する時には意識下にあったはずの想いを露呈するように。

これは予め計算された/狙った表現だったのか? …いや、そんなことはどちらでもいい。

「食べることは、口を通して世界と接触する快楽である」と、これほどストレートに、かつ、雄弁に語る写真に、これまで出会ったことがあっただろうか。そして、ごく普通の日常生活のスナップショットに秘められたその意識下の想いを意識化させ、それを観る者に、見てはいけないものを見てしまったような気分を抱かせる、そんな恐ろしい力を持った写真を、かつて見たことがあっただろうか。

2011年2月27日日曜日

小谷元彦展:幽体の知覚

見に行った日:2011.2.27


会期:2010.11.27〜2011.2.27
会場:森美術館
詳細:http://www.mori.art.museum/contents/phantom_limb/index.html


森美術館で開催していた小谷元彦展、最終日に、まさに「駆け込み」で観てきました。曽根裕展の半券を見せて、しっかり割引入場。

あの広〜い森美術館の展示室、どれも見応えがあった。そして、1点1点が、繊細で、なまめかしい。美しいこと=完璧なこと、なのか。あれ? それって、曽根さんの「Perfect」とゴールは一緒ってこと? などと考えながら、今回、小谷さんの「ニューボーン」シリーズを観て、ふと、思ったことがある。自分としては腑に落ちたのだけど。

小谷さんは、時間の流れを細かく細分化して捉えようとしている。これは言ってみれば『微分』。一方、曽根さんは、時間の流れを遠くから俯瞰してたくさんの層を積み重ねていくという『積分』。

…なんてね。
(artscape news 2011.3.4号掲載)

2011年1月31日月曜日

映画「死なない子供、荒川修作」

見に行った日:2011.1.31


会期:〜2011.2.11
会場:イメージフォーラム


荒川修作さんの映画「死なない子供」を観た。
映画監督は、三鷹にある「天命反転住宅」に自ら住んでいる山岡信貴さん。「天命反転住宅」の住人に取材しつつ、荒川さんが講演や、この住宅の説明会で話した言葉が紹介される。荒川さんって、ちょっと恐いくらいにぶっきらぼうで、怒ってるのかと思うような話し方をする人だと思っていたのだけれど、そしてもちろん、その話し方で、映像の中でも話しているのだけれど。

荒川さんが考えていることは、現在、普通に使われている日本語では表せないんだ!
その言葉で表現できないもどかしさが、あの話し方になったんだ!

と、腑に落ちた。

「哲学者なんて何もしてない」
「人類は何もわかってない」

と、否定的な物言いとは対照的に、「生きること」への圧倒的にポジティブな姿勢/態度を感じた。

何だかわからないけれど、ハンマーでアタマを殴られたような衝撃を受け、それに打ちのめされるのではなく、その衝撃が、「命」「生」へのポジティブな肯定となって、自分の中に残っている。

「1万年後に会おう」とスクリーンの最後に荒川さんのメッセージ。

うん、1万年後なら会えるような気がするぜ、荒川さん。

(2011.2.4発行 artscape news に掲載)

2011年1月25日火曜日

[project N] 吉田夏奈展

見に行った日:2011.1.16


会期:2011.1.15〜3.27
会場:東京オペラシティアートギャラリー


[project N] は、若手作家を取り上げるシリーズで、オペラシティアートギャラリーの2Fのコリドール(廊下のような展示空間)で行われている。企画展とは特に関連させてはいなかったように思う(少なくとも私がこれまでみた限りでは)。だから今回もそのつもりで、曽根裕展を観てからこちらを観た。

長い壁の長さをめいっぱい使って、複数のキャンバスが並べられていて、山が描かれている。描いている道具はクレヨン。緻密な筆致の絵画なのだが、自然物をスケッチしたのとは違う感じで、いわゆる写実的な絵画ではない。が、この息が詰まるような緻密さは何だろう。そこにごろごろと転がっている岩の感触が伝わってくるような、そんな緊密な距離感。身体が感じた世界を、キャンバス上に転写するような感じ、というのか。

...ん? この、世界の捉え方って、曽根とよく似ているじゃないか。形態は違うけれど、同じ方向を目指している。これは希少な...

と思って、解説文を読んで腑に落ちた。吉田夏奈は、2003年に曽根が秋吉台でやった、「理想の洞窟」のワークショップの参加者だったのだ。「理想の洞窟」は、私も観に行っていた。その記憶を思い起こしてみると、「カナちゃん」と呼ばれていた子がそういえばいたなぁ...と思い出した。絵画を手がけるようになったのはそのワークショップが契機になったそうだ。それを知ってから改めて眺めてみると、作品のあちこちに、“曽根的なもの”を感じた。それは決して「真似」ではない。表現の根幹にあるものが、「共通」している、というか、根幹にあるものを「共有」しているのだ。

吉田夏奈は、曽根の真の理解者であり、正統的後継者である。

...まさに、こういうのを“Perfect”って言うんじゃないか!
「やられた」感、倍増。

2011年1月17日月曜日

曽根裕「Perfect Moment」

見に行った日:2010.1.16


会期:2010.1.15〜3.27
会場:東京オペラシティアートギャラリー


本当に久しぶりの、曽根裕の日本での展覧会。オープン早々、行ってみた。
広い展示室をどーんと使った展示である、、ったって、ギャラリーの中にジャングル作るんだからそれくらい広い空間が必要だ。
ちなみに、この展覧会と並行して銀座のエルメスでやってる曽根の展覧会は「雪」。冬の凍てついた空気を感じる風景。一方、こちらはジャングルで、季節は対照的だし、大理石の作品も「木のあいだの光」で、まぶしく暑い夏の日を思い出す。そういう見せ方、どれくらい本人が意図的にやってるか分からないけど、うまいよなぁ。

映像の作品は、「ナイトバス」と「バースデイパーティ」。どちらもできあがる過程から見てきた、私にとっては懐かしさを覚える作品だが、改めて全編観てきた。しかしこれ、もう15年とか前の作品になっちゃうんだよな〜。それなのに、今観ても面白いし、色褪せないし、リアルだ。
ひたすら移動する車窓風景が続く「ナイトバス」は、観る者を一気に旅気分にさせてくれる。
ひたすらバースデイパーティを繰りかえす「バースデイパーティ」は、観る者すべてをハッピーにしてくれる。
そうだよね、毎日がお誕生日だったら楽しいよね。毎日旅していたら楽しいよね...。

廊下の空間を区切って、水晶の「木のあいだの光」の作品が1つだけ展示されていた。照明を狭いところに集めて照らしていて、ほんとに木の間からこぼれる光を見るような感じだった。そういえば、いつぞやの夏、曽根のうちの別荘にお邪魔した際、木の間からこぼれる光をずっと見ていたことを思い出した。

あいつ、なーんも変わってないわ。気になるもの、好きなもの、目指すもの。ずーっとおんなじ、ずーっと追っかけ続けてる。それが「Perfect Moment」、完璧な瞬間。
今回、それはもうここにあるじゃんか、と思ったけど、曽根は「まだまだ」って言うんだろうな。まだまだ、追っかけ続けるんだろうな。もっともっと完璧なのを、って。

翻って、私は、追っかけ続けてるものの片鱗にでも触れているのだろうか。かすってもいないような気もするな。何やってんだか。もうちょっと頑張らなあかんな。などと自己反省。

ショップでカタログを買おうとしてビックリ。裏表紙が破れてる!
...実は、そういうデザイン。そんな本、初めて見たよ。

2011年1月10日月曜日

観たいもの/観る予定のもの(1/10現在)

・曽根裕展 東京オペラシティギャラリー 1/15〜3/27
・小谷元彦展 森美術館 11/27〜2/27
・荒川修作「死なない子どもたち」イメージフォーラム 21:00〜(1/15より11:00〜の回もあり)
・高嶺格展 横浜美術館 1/21〜3/21
・擬態美術協会/鍵豪 TOKIO OUT of PLACE 1/13〜2/6

森田浩彰「Timequake」

見に行った日:2011.1.8

森田浩彰「Timequake」
会期:2011.1.8〜2.5
会場:青山|目黒


この、「青山|目黒」も、ずっと行きそびれていた場所で、ようやく行くことができた。中目黒の駅から結構歩くのだ。通りに面してガラス張りなので、到着するなり、中にいた青山さんが気づいてくれて、ドアを開けてくださった。

作品が音を立てている。立てかけてあるような木材が壁に当たる音。そして壁の端っこでは、短くカーブした針金が2つ、不思議な動きをしながらのたうち回るように絡みながら張り付いている。天井の蛍光灯はふらふらと揺れ続けている。床には床を写したビデオが流されている。 「地震」をテーマにしている、と聞いて、腑に落ちた。木材が壁に当たる音は、確かに地震を思い起こさせる。揺れている蛍光灯や、時々ブレる床のビデオを見ていると、自分が揺れているのか、見ているものが揺れているのかわからなくなる。揺れている感じだけが自分の中に残り持ち帰られる。これは地震で揺れたあとに良く似ている。揺れている感じだけが自分の中にだけ残っている、この感じ。

壁で不思議な動きをする針金は、ここの展示作業をするうちに思いついたというか、偶然発見した現象から作品化したものだそうだ。自分で全て作ってない感じ(針金の動きは制御できないし予想もできない)が、作者自身も新鮮に感じていると話していた。この作品はずっと見てても見飽きない。

ほんとは全ての動きが止まった瞬間があるとカッコいいのかも。と言ったら、ほんとは、タイマーで時々止まったり動いたりするようにしたかった、とのこと。ぜひ、今度はそれを実現して欲しいな。

「破壊があって初めて生まれるものがある」 と、照明器具を壊して作られた作品を前に、作家が言ったことばがとても印象に残った。スクラップ&ビルドだって、悪いことばかりじゃないはずだ。

作家と直接話すのは面白くて、ついつい長居。この日は歩き疲れたこともあり、ここで打ち止めにして帰宅。

2011年1月9日日曜日

立石大河亞「音雷韻走査」

見に行った日:2011.1.8

立石大河亞「音雷韻走査」
会期:2011.1.8〜2.5
会場:山本現代


山本現代も、ずっと、来ようと思いつつ、来れないでいたところ。Misa Shin Galleryからは近いようなので行ってみた。新年最初の展覧会なので、派手に来るのかと思いきや...。見た目は派手だけど、平成4年とか6年とかが制作日として描かれている旧作ばかりだった。テーマはオンラインとかネットワークみたいなことのようだけれど、そういう時代に即したテーマはどうしても賞味期限があるんじゃないかな。やっぱり古臭く見えてしまう。

鉛筆描きのドローイングというか、漫画みたいにコマを作ってショートストーリーを描いている作品が2点ほどあって、最初車の外にある風景が、車の中を埋め尽くしてしまう、というような作品があったが、こっちの方が私は好きだな。あり得ないけど、想像の上では描ける、存在できる世界。同じ日に見た、山口晃の作品とも通じるところのある、ナンセンス度やフィクションとリアリティの間を行く感じ。

山本さんにはお目にかかれず残念。

アイ・ウェイウェイ「Cube Light」

見に行った日:2011.1.8

アイ・ウェイウェイ「Cube Light」
会期:2010.11.19-2011.1.29 2.19←延長になりました!
会場:Misa Shin Gallery

昨年11月に新たにオープンした、Misa Shin Gallery。最初の展覧会が、この展覧会。
今回初めて来てみたが、古い倉庫のような建物で、天井も高くて、ちょっと狭いがいい空間。その空間にほとんどめいっぱい、という大きさの作品。...ということは、この作品、ここで作ったのか?作業するのも大変そうなサイズ。もう少し作品と距離を取って、全体を眺めたいのだが、引きが足りないのが残念。
透明な色の付いたビーズで面を埋めてキューブにしたもので、圧倒的な大きさと、ビーズに反射してる光が美しい。有無をも言わさない感じが、アイ・ウェイウェイらしいというか、辛さんらしいというか(笑)

西野達「西野達 別名 大津達 別名 西野達郎 別名 西野竜郎」

見に行った日:2011.1.8

西野達「西野達 別名 大津達 別名 西野達郎 別名 西野竜郎」
会期:2010.12.17〜2011.1.8
会場:アラタニウラノ


アラタニウラノには初めて行った。銀座から歩いて行ってみたが、そんなに無理な距離でもないようだ。


西野さんは、いろんな名前で作品を発表しているが、これが「名前交換プロジェクト」というものだというのは、今回初めて知った。なるほどね〜。名前だって、必要に応じて(必要などなくても?)交換しちゃえばいいんだ。

東京タワーにまつわるプロジェクトのアイデアが、いくつか展示されていたが、「東京タワーと通天閣を交換」というプロジェクト、やってみたらおもしろいだろうなと思ったりして。というか、これが一番、できそうな感じがする(笑)

「豆腐の大仏」のドローイングと写真も展示されていた。「やってみたいっ!!」と思うエネルギーの大きさがドローイングに溢れている。実際の「豆腐の大仏」は、あっという間に壊れてしまったらしいのだが。


西野さんの作品は、やっぱり現場で体験するのが一番面白い。ギャラリーで扱えるのは、それが実現する前の段階のドローイングか、もしくは、それが実現したことの記録である。一番面白いところは、売り買いができないのだ。
ギャラリーとしても売りにくい作家だろうと思うのだが、頑張っているようで、この展覧会、作品は良く売れていたみたい。

山口晃展 東京旅ノ介

見に行った日:2011.1.8


山口晃展 東京旅ノ介
会期:2010.12.28-2011.1.10
会場:銀座三越8階催物会場
入場料:500円

会期終了間際ということもあり、とても混雑していた。老若男女を惹きつける魅力があるんだなと改めて思うほどに、観客の層が広い。いつの間にかこんなにポピュラーになってしまったんだ、この人は。

細かく描き込まれた絵は、ついつい近寄って見入ってしまう。見れば見るほど発見があり、風刺も効いていて、素直に見ていて面白い。あり得ないような風景であっても、見る側はそんなに気にせずに受け入れてしまう。形式的には昔の絵巻物のようなスタイルだけど、内容的にはラディカルで「現代美術的」だと思うんだが。「わかりやすい」というか、「とっつきやすい」んだな、きっと。

「露電」と称して、谷中辺りに路面電車を走らせるアイデアを描いたものなどは、アートではなく、実際の提案としても面白いものだと思った。絵で描くならばどんなアイデアだって実現可能。それはまさにフィクションの面白さ。

後半、「電柱の美」 についてのテキストとインスタレーションで構成された空間が妙にゆとりがあって、それまでの平面作品を見てきた空間の密度と落差がありすぎな感じ。こんなにスペースあるんなら、平面の作品をもっとゆったりと見せてくれたら良かったのに。
というか、最後の空間で、展覧会としてのテンションが下がっちゃった感じがしたのだ。こういう会場に、展覧会としてのテンションを求めるのが無理な話だとは思うけれど。

今度はどこかの美術館でビシッとした展覧会として観たいなあ。

いまさらだけど

ブログを使ってみることにする。
いろいろ見たものなどについてメモしておきたいと思ったのです。
以前は自分でXOOPS立ち上げて作ってたけど、めんどくさいし、
いつまで続くかわからないし、余計な手間掛ける必要はないだろうと。