見に行った日:2011.8.6
会期:2011.7.28〜8.6
会場:20202(代々木八幡)
詳細:http://www.shinrin20202.jp/
鶯セヴーチの個展と、平間貴大の個展とのあいだの実質1週間ほどが、鶯・平間の2人展になるとのことだった。最終日になってしまったが観ることができた。
おそらく、この2人展を観た人の多くが「?」を抱いて帰路についたのではあるまいか。私は次の2つの疑問の間をしばらく逡巡していた。
・2人展というけど、事実上、鶯展じゃないの?
・2人展というけど、実際は、平間展じゃないの?
かなり逡巡したのちに、これら2つの疑問を抱かせるからこそ、これは2人展なのだという結論に辿り着いた。鶯展でもあり、平間展でもある。だからこそ、2人展だ。
本展では、鶯は、先日までの個展とは異なった作品を展示。鶯の作品や平間が描いた画をプリントしたバッグは1点ずつ異なる絵柄で15点くらいあったか、いつの間に作ったのやら、この作家の仕事の速さには改めて驚かされる。さらに、また、鶯の新しいタイプの作品が! 今度は「詩」である。何だか、意味がわかるようなわからないような詩である。私がここに書いたテキストを元にして作った「詩」、というのを見せてもらい(この日、朗読パフォーマンスがあった)、文章の絶妙な壊れ方に感心した。これはどうやって作るのだろう?と尋ねてみると、機械翻訳を、様々な形で3回通した結果である、という。面白い道具を見つけるものだ..というか、鶯は、最新技術により生み出されたツールを、思いもよらないやり方で使いこなしてしまう。そもそも彼女が展覧会を開くきっかけとなったのが、iPhoneのお絵描きソフトとの出会いであり、その見事な使いこなし具合と、思いもよらない使い方で周囲を驚かせたことであったように。そしてそのような道具たちとの出会いに、常に見え隠れしているのが、平間の存在である。そもそも鶯が絵を描くようになったのは、平間の影響というか、平間にそそのかされて、であるし、翻訳詩の内容は平間がどうした、というものである。そのように、鶯の作品には常に平間の存在が感じられるのではあるが、本展では明示的に平間の作品と絡み、果敢にも平間の存在とがっぷり四つに組んだ作品を展示していた。その果敢さと大胆さにおいて、本展での鶯のパワーは圧倒的で、本展を事実上、鶯展である、と感じさせるほどである。しかも、平間の作品は見当たらないのだから。
一方、平間は「無作品」作品ばかり、8点を発表した。会場の入口に控えめに置かれた、その作品リストに気がつかなければ、「平間の作品はどこにあった?」と帰路悩まされることになるだろう。そんな危うい存在なのが「無作品」作品であるが、作品リストにより、その存在が明らかになった途端に、動かし難い存在になってくるのだ。そこには何も無いように見える。しかし、それは存在する。ただし、誰もそれを示すことはできない。また、誰もそれを持ち帰ることはできない。この展覧会で、いま、ここにしか存在しない。と、思うと、この展覧会の空間そのものが、あるいは展覧会そのものが、平間の作品のようにも思えてくる。鶯のすべての作品を通じて、平間はその存在を露にする。平間の存在なくしては、この展覧会は成立しない。そういう意味では、本展は平間展である。たとえ、平間の作品が見当たらなかったとしても。
さて、2人展の後は、いよいよ平間の個展だそうである。どうなることやら。
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