2011年11月21日月曜日

中ザワヒデキ油彩新作展「かなきり声の風景」

見に行った日:2011.11.21


会期:2011.11.15〜12.2
会場:ギャラリーセラー



「かなきり声の風景」は、中ザワヒデキの油彩画のタイトル、いや、正確に言えば、油彩新作展のタイトルである。今回展示された各油彩画のタイトルは「赤い」というのがタイトルに付いていて、「赤いかなきり声の風景」というようなのである(ギャラリーにあった作品リストによれば)。

見れば、確かにその画面には赤が溢れている。しかもいろんな赤だ。しかし、その赤は何の色なのか。赤く燃える太陽、といっても、こんな色ではないし、夕陽の赤でもなければ、赤ワインの赤でも,赤いリンゴの赤でもない。写実的な絵画でないことは明らかにわかる。だから、その赤が特定の何かの色だと解釈する方が間違いかもしれない。それでも、こんなに赤い色ばかり並ぶと、なぜ赤いのか、と考えてしまう。

何か、赤いモノをあてがって、私は安心したいのかもしれない。それほどまでに不穏な赤色なのである。暖かみを感じさせる色=暖色だと言われるが、これらの赤は、暖かみなどという緩やかな状態ではなく、何か沸々と煮えたぎったような熱さを感じさせる。

そこまで考えてようやく辿り着いた。この赤は、血の赤ではないか、と。そしてそれはふつふつと沸いているのである。何かと戦うように。あるいは何とも戦わないために。

中ザワは、美術史に造詣が深い、というか,そんな「造詣が深い」だなんて言葉では軽過ぎて不適切なほどに、一貫した美術史観をずっと持っている。近現代の美術史は「表現主義→反芸術→超現実主義」の繰り返しである、というものである。中ザワ自身の表現スタイルも、まるでこの美術史を辿っているかのように、私には思われる。

画業の初期、学生時代には油彩も描いていたようだが、主にはアクリル画の時代。マチエールに強くこだわったこの時期の作品は表現主義的ではなかったか。

その後、芸術に反旗を翻し(まさに反芸術)、「イラストレーター」と自称していた時代。

そして再び美術の世界に戻ってきた時には、コンセプチュアルな「方法」という概念を掲げていた。かつてのシュルレアリストたちが「宣言」として、そのコンセプトを発表したように、「方法」も「宣言」されて開始された。

ここまでの時期は、美術史上に現れた、多くの「主義」と同様に、それ以前の表現や主張を否定することにより、新しい表現を作り上げてきた。だから、そこで、前の時期に戻る、などということは有り得なかったはずである。

しかし、「新・方法」の登場あたりから、中ザワの姿勢は変化してきたように思う。「新・方法」は、「方法」でやり得なかったことをやっているが、ある意味「方法」のやり直しである。以前の表現を否定して次の表現を獲得してきた、それまでのやり方のもとでは、有り得ないことである。「方法」として行ったが不本意だったところを批判することがあるのは、過去を否定するやり方の断片がまだ残っているのかもしれなかったが、原則的には「新・方法」は「方法」を否定していない。

「新・方法」が順調な活動をするようになると、中ザワは自己回帰のようなことを始めるようになる。美術界への反旗であった(と私は解釈していた)「バカCG」を改めて「ニュー・バカCG」を始めたのには驚かされた。中ザワは「イラストレーター」時代を否定していなかったが、とは言え、現在の「美術家」中ザワの仕事とは一線を引いているのだと、私は思っていたからだ。

そしてさらに、今度は「油彩画」と来た! 中ザワの「美術家」としての初期の作品には、アクリル絵画があったということは、以前の展覧会で見て知ってはいた。そのアクリル画以前には油彩も描いていた、と、話には聞いていた。が。そこまで戻るか! と、思ったのである。

これはたいへんなことになる。

かつては相容れなかった/相容れようとしなかった/相容れさせなかったものたちを、すべて、自身のものとして、取り込んで/飲み込んでしまおうとしている。それは、それぞれが、あるひとつの概念や主張であるところの「-主義」を、すべて否定/肯定しなければ突き進めない道である。とんでもない茨の道に足を踏み入れてしまったのではないか、中ザワは。

そのことを「多様式主義」などと軽く言ってのける。が、それこそがこれまでの数多の「-主義(ism)」が生まれては消え、無数の「-主義者(ist)」たちがなし得なかったことではないか。そこに、挑んでいるのである。おそらくは意識的に。

「-主義(ism)」を以て「-主義(ism)」を制す。

おそらく、それはさまざまな「-主義(ism)」に精通した中ザワにしかできないことだろう。あるいは10年くらい遅れて、それをできる人が現れるかもしれない。「新・方法」が、10年遅れてきた「方法」と言われたように。

さて、話を「赤」に戻そう。
そんな「茨の道」だからこそ「かなきり声」があり、意識的/無意識的に、その困難に挑む覚悟や勢いが、この油彩画の「赤」には溢れている/潜んでいるのではあるまいか。