2011年7月30日土曜日

東海道五十三次—広重から現代作家まで

見に行った日:2011.7.30


会期:2011.4.24〜8.30
会場:ベルナール・ビュッフェ美術館


「東海道」というと大きなテーマで、ヴァンジ彫刻庭園美術館の「山口・竹﨑展」と同時開催の展覧会。同じ「クレマチスの丘」内の美術館だから、やれる企画なのかもしれないけど、おもしろい試みだ。
予定に入れてなかったが、観に行ってみた。

これが、とてもおもしろい。
広重のおなじみ「東海道五十三次」を53点、改めて見ると、細かいところが面白いし、まとめて観ることで、これが作られた頃の人たちの、旅へのあこがれや期待感がよくわかる気がした。そして、棟方志功の「東海道棟方版画」、水木しげるの「妖怪道五十三次」と同じようなテーマの作品を眺めることで、共通するものも、それぞれの違いも見えてくる。さらに、さっき見た、山口晃の絵とはいろんなところで響き合う。「1粒で2度美味しい」という感じで、堪能して、お腹いっぱい、満足度たっぷり。良い企画だった。

東海道 新風景:山口晃・竹﨑和征

見に行った日:2011.7.30


会期:2011.4.24〜8.30
会場:ヴァンジ彫刻庭園美術館


竹﨑さんの作品は初めて見た。小さなTVと冷蔵庫と、ごちゃごちゃといろんなものが置かれたインスタレーションと、壁に数点の平面作品。ペイントもしているけど、コラージュみたいな感じ。大きな彫刻がどーん、どーんと置かれているこの美術館全体の展示とはまったく異質で対照的な感じだけれど、整然としていない、ということが、何か、ほっこりとした安心感というか、気持ちをラクにさせてくれるようだ。

山口さんは、この展覧会のために、わざわざ三島の街を訪れて、その上で、三島のどんな情景を描くかを決めて制作したそうだ。1点を除き、新作ばかりだ。捕まえどころが上手いんだなぁ、とそれらを見て思う。

新作でなかった1点も、普段はこの美術館の近くにあるがんセンターに飾られているもので、なかなか見る機会のないレアなものだ。がんセンターに置かれるということで、病人の登場人物がいる。大きな作品でそこに緻密に描かれているので、見応えはたっぷり。こんな楽しい絵があるがんセンターなら、通っちゃうかも。

そうそう、この、がんセンターのための絵が展示してある部屋にもうひとつ、作品キャプションがあった。部屋の奥の方に椅子が置いてあり、「ここに座ると「見立て富士」が見えます」というような説明が添えられていた。椅子に座ってみた。視界を探すが、はて? 「見立て富士」はどこに?? しばらく座って、あちこち眺めてみるのだが、それらしいものは見当たらない。というか、どんなものなんだ? ともかく作品らしいものは目に入ってこないし、わからない。降参だ〜。

そのまま諦めて帰ろうと思ったが、やっぱり気になる... 思い切って、さっき、絵の解説をしてくれた館の人?ボランティア?どういう人かわからないけど、その人に聞いてみた。そしたら教えてくれましたよ..
「えっ、そんなところに...」
教えてもらって、改めて力が抜けた。これがわかんなかったのかー。と、謎が解けてすっきりした一方、ちょっと凹む。わかってしまえば「なんで気づかなかったんだろう」というような場所だった。やられました。全面降伏!


2011年7月29日金曜日

山本基「しろきもりへ—現世の杜・常世の杜」

見に行った日:2011.7.29


会期:2011.7.30〜2012.3.11
会場:箱根彫刻の森美術館


入口から1階、2階へと進んでいくうちに、少しずつ少しずつ、基さんワールドへ誘導していく、計算し尽くされた徹底的に美しい展示。

入口の使いにくい展示スペース。人の通る道だけを空けて、それ以外は岩塩で日本庭園。これまでの基さんの作品とはちょっと傾向が違うような、でも、違和感はない。竜安寺の石庭を連想させるそれは、基さんの作品の凛とした空気感や静寂さをわかりやすく示してくれる。

そして1階。床から天井まで積み上げられた塩のブロック。さらさらとした塩とは全く印象の違う、固められた塩のブロックは、塩という物質の強さを感じさせる。

それから、気になったのが、この1階の壁面の平面作品だ。これまでに見たことないタイプの作品じゃないだろうか。細かい渦巻きを書き込んだ小さなドローイング作品を樹脂で固めたものが1点。対面の壁に、謎の渦巻きが写り込んでいる写真作品。何を撮ったんだろう、宇宙のようでもあり、海の渦潮のようでもあり、ミクロにもマクロにも見える....。しばらく眺めていたがわからない。降参だ!あとで基さんに訊いてみよう。

2階に上がってみると、息をのむような広大かつ繊細な塩の「絵画」。「迷路」ではない。何か有機的なものが描かれているようにも感じる。繊細さはそのままに、新たな表現に向かいつつあることを感じさせる。足場が置かれ、床上3メートルくらいまで上がることができた。上から見下ろしてみた塩の絵画は塩の結晶のキラキラした白さと、その高さに、アタマはクラクラ、吸い込まれそうだった。吸い込まれないうちに、と、早々に降りてきたことは言うまでもない。

その後、1階の作品の謎を解くべく、質問させていただいた。
「壁に1点あった、あのドローイングを写真に撮って、反転させたんだよ」
という答えだった。うへー、これはヤラレた! 答えはそこにあったのに、気づかなかったよ〜!

そうそう、レセプションの作家挨拶の際、基さん、感極まって言葉に詰まっていた。涙していたようにも見えた。そんな基さん見たの、初めてだ。現地制作するタイプの作家だから、いろいろあってもおかしくないのだが、普段は感情をあまり露にしない人だ。この展覧会に向けての思い入れと、展覧会の完成度への誇りとが、よく伝わってきた。きっと、この展覧会は、この先、常に参照されるようなものになるんじゃないかなぁ。「あの展覧会がきっかけだったよね/はじまりだったよね」というふうに。


写真撮影:yum Haruki

2011年7月25日月曜日

田中功起個展「雪玉と石のあいだにある場所で」

見に行った日:2011.7.23


会期:2011.7.16-8.20
会場:青山|目黒
詳細:http://aoyama.s352.xrea.com/exhibition/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%8A%9F%E8%B5%B7-in-a-place-between-snow-balls-and-stones


展覧会初日の1週間後の23日がオープニングレセプション、との案内だったので、23日に行ってみた。遅い時間に行ったので、宴たけなわ、ギャラリー前の路上でさえ人で溢れていた。それでも作品はゆっくりと見ることができた。壁にはここの場所で今とはちょっと違う位置に置かれた作品の写真のプリントアウトがラフに貼られている。一度はこうして展示したってことなのかな? そのラフな感じが、進行形な感じと、絶妙なユルさを演出している。

メインに据えられたのはビデオ作品。フリーマーケットに参加した顛末を収めたものだ。ヤシの葉をフリマに出店するも売れない、売れない…。アドバイスめいたふうに好き勝手なことを言い放っていく通りすがりの人たち。ヤシの葉を売ってる奴はあんまり見たことないけれど、その他はよく見かける光景だ。そして、フリマ主催者側の係員らしき人が巡回してきて、撤退を命ぜられるところで、このストーリーは終わる。どうにもならなかったものが、どうにもできなくなって、終わってしまうのだ。しかも、撤退する様子も撤退後の様子も映像にはない。だから、ほんとはどうしたか、どうなったかはわからない。さっきまでずっと見守っていた「あれ」はどうなっちまったんだ? 観客だけが映像上のストーリーの中に取り残される。その「取り残された感」が何とも居心地悪く、また、それに気づかされて気恥ずかしい気分にもなり、「取り残されてなんかいないわよ」てなフリをして、繰り返される映像を観ている自分にも、また居心地悪くなり…。いや、でもね。この居心地悪い宙ぶらりんにさせられてしまう感じ。これだよこれ。田中功起くんの作品の気持ちの良い居心地の悪さ、というか、居心地の悪い宙ぶらりんの気持ちよさ(うう、何言ってんだか、自分でもわからなくなってきた)。表面上は異なる作品だが、大事なことは変わっちゃいない。失ってはいけないものは失わずに持ち続けている。そう思えたら、何かとても嬉しくなった。そしたら、これまでの作品がアタマの中でリワインド&リピートされ始めた。おっと、現場の作品を観なくちゃ。そう思って、見遣った壁面には、トロントの屋外でゼリーを固めるって作品が。大声で笑いそうになった。いいぞいいぞ〜! やっぱ、このヒト追っかけるの、止めらんないわ(笑)

そういえば、ご本人のお姿を拝見するのは、すんごい久しぶりである。まだ彼が学生の頃、世田谷美術館の中の市民ギャラリーで展覧会をしていたときにお会いしたきりだったのだ。そのことを、ご挨拶した時に伝えたら、とても驚かれて、「あれは長谷川祐子さんの企画でやらせてもらえたんだけど、結局長谷川さん観てくれなかったんだよね」なんて話を聞かせてくれた。そうだ、たぶん、私は長谷川さんから聞いて、行ったんじゃなかったかなぁ。ま、もはやそれは笑い話。ていうか、そのことがまた、彼の作品のような出来事じゃないか、と、帰り道でそんなことを考えて思い出し笑い。

2011年7月22日金曜日

鶯セヴーチ作品展

見に行った日:2011.7.22


会期:2011.7.7〜7.26
会場:20202(代々木八幡)
詳細:http://www.shinrin20202.jp/


鶯セヴーチ嬢は、2010年12月10日からiPhoneのお絵描きソフトで画を描くようになったそうだ。画を描いてはtwitpicにアップし続けていて(現在も)、描きためた画と撮りためた写真を、初めて展覧会の形で発表したのが今回の展覧会。多作なアーティストらしく、会場の壁は、彼女の作品である画と写真で埋め尽くされている(トイレの壁さえも)。その量も圧巻ではあったし、改めて紙に出力して並べてみた時に見えてくるものもあったとは思う。

しかし、それらの画よりも、私の目を奪い、惹き付けて離さなかったのは、写真作品の方だった。これらの写真も、iPhoneのカメラで撮ったのだと以前彼女は話していたが、被写体はほぼ2種類。1つは、平間貴大氏を撮ったもの。もう1つは、食べ物を至近距離で撮影したもの。そしてこの2種類の写真が、交互に並べられている。平間氏を被写体とした写真は、寝顔まで含めたごく自然な表情の、普段の平間氏の姿が伺えるスナップショット。それだけ見れば、撮影者が被写体のプライベート領域にかなり深く入り込んでいるとは思うけれども、普段の姿を良く捉えているね、と微笑ましく眺めていられるスナップ写真だ。ところが、それらのスナップ写真の間に置かれた、食べ物の写真は、「何の写真だろう?」と思ってしまうくらいの至近距離で撮影されていて、そのせいなのか、他にも何か工夫しているのかもしれないが、妙に生々しく、艶かしく、エロティックだ。そんな食べ物の写真と交互に並べられた時、平間氏を撮った写真は、被写体と撮影者の距離の無さを露呈し始める。食べ物を至近距離で撮影したように、平間氏のプライベートへの至近距離に撮影者はその立ち位置を置いている/置くことができることを、それらの写真が語り始める。そのことによって、ごく日常のスナップショットだったはずの写真が、妙なエロスを持って立ち現れてくるのだ。まるで、日常のスナップを撮影する時には意識下にあったはずの想いを露呈するように。

これは予め計算された/狙った表現だったのか? …いや、そんなことはどちらでもいい。

「食べることは、口を通して世界と接触する快楽である」と、これほどストレートに、かつ、雄弁に語る写真に、これまで出会ったことがあっただろうか。そして、ごく普通の日常生活のスナップショットに秘められたその意識下の想いを意識化させ、それを観る者に、見てはいけないものを見てしまったような気分を抱かせる、そんな恐ろしい力を持った写真を、かつて見たことがあっただろうか。