2011年8月27日土曜日

新・方法「アップローディング・イヴェント」

開催日:2011.8.27 0:00〜23:59(webサイト上での開催)


会期:2011.8.27 0:00〜23:59
会場:http://7x7whitebell.net/new-method/up.html(現在は存在しないサイト)


新・方法からメールが来た。

1964年10月10日、ハイレッド・センターはドロッピング・イヴェントを行った。
2011年8月27日、「新・方法」はアップローディング・イヴェントを行う。

とあった。「アップローディング・イヴェント」って何するんだろう? 想像つかなかった。引き合いに出しているのは、ハイレッド・センターである。つまらんわけはないだろう。
当日を楽しみに待つことにした。

8月27日0:00〜23:59開催とのことで、サイトが開くのは27日の0時。
仕事が圧してしまって、26日の夜中まで及んでしまったため、私がサイトにアクセスできたのは開始から30分後くらいだった。そこには、この間、そこに「アップロード」されたファイルのリストが並んでおり、続々とファイルがアップロードされていた。ただ、それだけである。しかし、たくさんの人が、そこに集っていることは感じられた。誰でも、何でも、アップロードできるとのことだった(技術的に、仕様上の制限はあったのだがそれは明示されていなかった)。アップロードされたファイルは見ることができるので見てみる。確かにいろんなファイルがアップロードされている。アップロードするファイル数の制限もないようなので、一人で複数ファイルアップロードしている人も多いようだ。というか、一度アップすると、またアップしたくなるようなのだ。そんなものかね、と思いながら、私も1つ、アップロードしてみた。無事送られて、リストに追加された。それだけのことなのだが、なんだか爽快な気分になった。

SEという仕事を経て、現在もwebサイトの管理などしている私にとっては、通常アップロードという行為は、重要な役割や意味を持つとされる行為であり、若干の緊張を伴う行為である。しかし、この「アップローディング・イヴェント」では、その「アップロード」という行為には、「そこに参加する」という役割と意味しかない。「参加すること」は任意、つまり、それぞれ本人の意思に任されていることであり、それ以外の意味や役目からは解放されている。つまりここでの「アップロード」という行為は、意味を剥奪された、いわば「純粋なアップロード」である。その「純粋なアップロード」という行為を初めて体験して感じたのは、「アップロードってこんなに気持ちよいものだったのか!」ということだった。とにかく、気持ちいいのである、だから、またアップロードしたくなってしまうのだ。ここに参加しているみんなもそうなんだろう、と確信した。快感でなけりゃ、こんなにみんなアップロードしないだろう。

そしてこの「アップロード」という行為の意味のなさが、参加者たちに不思議な連帯感を与えているようにも感じられた。みんなで大勢で集まって、無意味な行為を繰り返す。それはたいへんな快感を得られる行為なのである。通常は、何かを「得る」ことが快感とされるが、それは「得られないものを得る」からである。通常は「何かを得る」ための行為を「何も得ることもなく」行う、そこにある種の清々しさのような快感があるのだ。

諸々「自粛」ムードの昨今には言いにくいことなのだが、テクノロジーの発展には、ある種の「無駄遣い」が必要なのではないか、と、私はかつてより考えている。「そんなことして何になるの」と言われながら、無駄と思われるようなことに新しい技術を試してみることで、その技術を理解し、使いこなせるようになっていったりする、ということは、技術者にとってはよくあることだと思う。新しい技術の発展が、「テクノロジーの無駄遣い」の結果である、ということも少なくないのではないだろうか。あるいは、重要なところではよくわかった技術(いわゆる「枯れた技術」)を使う、という考え方がある。最初から、重要な責務のあるところで新技術を試す、なんて、恐ろしい、というわけだ。

そんなことを考えながら、「アップローディング・イヴェント」を眺めてみた。そこで起こっていることは、まさしく「テクノロジーの無駄遣い」である。そして、イヴェント終了時にアップロードされたファイルはもちろん、サイトごと抹消されてしまう、ということで、その「無駄遣い」ぶりは徹底されたものとなった。

おそらく、「アップローディング・イヴェント」に参加した人たちは、「アップロードの快楽」という新たな感覚に気付かされたはずである。そして、その「アップロードの快楽」に気づき、それを楽しんだ人たちがいた、ということは、おそらく「アップロード」という技術の世界に新しい地平をもたらすことになり得るのではないだろうか。

(記:2011.10.13)

2011年8月15日月曜日

平間貴大 無作品作品展

見に行った日:2011.8.13


会期:2011.8.8-9.3
会場:20202


平間は鶯セヴーチとの2人展において「無作品」作品を発表していたので、「無作品」がどんな作品かを知らないわけではなかった。「無作品」でどうやって展覧会にするんだろう? と思いながら、会場となっている 20202に入った。

作品リストと平間のステートメントが置かれている。それだけである。

まっすぐに「無作品」ということと向き合い、そのままを発表した、その明快さは痛快であり、その姿勢は爽快だ。この明快さ・痛快さ・爽快さは、「無作品」を発表することへの平間の確信と覚悟に裏打ちされている。だから、ここには確かに作品が存在するし、これは展覧会として成立している。

…ふと思った。「There is no works. 」と「There isn't works. 」は、通常、同意であるとされるが、これらは区別されなければならないのではないか、と。

いや、もう、ぶっちゃけて言えば、暑い中、ギャラリーへ汗だくになって辿り着いてみれば、カラ〜ンと何もないって、、、もう、豪快に笑うしかないやろ(笑)

2011年8月13日土曜日

堀浩哉展「起源—naked place」

見に行った日:2011.8.13


会期:2011.7.20〜8.20
会場:ミヅマアートギャラリー



「記憶するために記憶する」と繰り返し書き付けられたペインティングからは、何やら執念のようなものが溢れ出してくるようだった。堀さん本人から凝視されたらたいていの人は、もはや目をそらすこともできず、その場から動けなくなるだろう。作品もまるで本人がそこにいるようなたたずまいだ。私はしばらくその絵から目を離すことができなくなり、その場に立ち尽くしていた。

見そびれたパフォーマンスの映像も上映されていて、最初から最後まで見ることができた。映像で見ているだけですんごい迫力である。やっていることは変わらない。今回はロープで身体をぐるぐる巻きにしていたが、以前パフォーマンスを見たときは、テープでぐるぐる巻きにされてたような記憶がある(笑)。これくらい徹底的に同じことをやり続ける、そのエネルギーに驚愕する。そして残念なのか幸せなのかわからないが、この人に「もう、よろしいんじゃないですか」とは言えない現実がある。この人の問いかけることは未だに有効だからだ。問いかける内容も問いかける態度も、この人以上にきっちりと力強く、粘り強い人を私は知らない。

「お前は何をしている? どう生きている? 何に縛られている? 縛られてても歩け!前に進め!」

そんな声が聞こえて、また、私は答えに詰まる。毎回、今度はちゃんと答えられるようになろう、と思っているのに。宿題を終えることができなかった小学生のようにしゅんとしなだれて、ギャラリーを出て歩き始めると、前方から堀さん本人がやってくるではないか。しかし、声をかけ損ねてしまった。だって、宿題終わってないんだもん(笑)メッセージはビンビンに受け取っているので、堪忍して〜、と心の中で叫びつつ。

2011年8月9日火曜日

Survival Projection 2011

見に行った日:2011.8.9


会期:2011.8.5, 8.9
会場:新港ピア壁面


開始時間をだいぶ過ぎてから会場に到着。しかし問題はなかったようだ。
開催時間中、どうやら映像+音はリピートされるようだ。始まりから終わりまで、ストーリーがあるようなものかと思っていたが、そうではないようだ。終わりも始まりもない感じ。ただ、そのことが、会場から緊張感・緊迫感を奪ってしまったように感じなくもなかった。繰り返されるメッセージに見ている側が慣れてきてしまう。いつ見てもいつ抜けても大丈夫、だから集中しなくても、何かしながらでも、お喋りしながらでも見ていられる。いや、見てなくてもよいのだ。
なんだか、その緊迫感のなさにちょっと興ざめしていたところへ、映像が途切れる現象が。時間的にも良い時間だったので、そこで終わりになってしまったようだが、終わりかどうかのはっきりとしたアナウンスもない。が、みな、帰り始めた。う〜ん、何かしまらないなぁ。そういうもの? 期待し過ぎたかなぁ。

そんな否定的な気分で内容を振り返っても、否定的になってしまう。
愚痴っぽくなるのでひとつだけ。

震災や戦争、暴動などでの被害者の声を使うっていうのは、ある面、ズルいなあと思ってしまった。その声は真実だから批評のしようがない。そしてそういう声を使っているが故に、その作品について、否定的な評価をすることは難しい。その真実の声まで否定してしまうように感じられるからだ。こういう作品はどう批評したらいいんだろう。

2011年8月8日月曜日

鶯セヴーチ・平間貴大2人展

見に行った日:2011.8.6


会期:2011.7.28〜8.6
会場:20202(代々木八幡)
詳細:http://www.shinrin20202.jp/


鶯セヴーチの個展と、平間貴大の個展とのあいだの実質1週間ほどが、鶯・平間の2人展になるとのことだった。最終日になってしまったが観ることができた。
おそらく、この2人展を観た人の多くが「?」を抱いて帰路についたのではあるまいか。私は次の2つの疑問の間をしばらく逡巡していた。

・2人展というけど、事実上、鶯展じゃないの?
・2人展というけど、実際は、平間展じゃないの?

かなり逡巡したのちに、これら2つの疑問を抱かせるからこそ、これは2人展なのだという結論に辿り着いた。鶯展でもあり、平間展でもある。だからこそ、2人展だ。

本展では、鶯は、先日までの個展とは異なった作品を展示。鶯の作品や平間が描いた画をプリントしたバッグは1点ずつ異なる絵柄で15点くらいあったか、いつの間に作ったのやら、この作家の仕事の速さには改めて驚かされる。さらに、また、鶯の新しいタイプの作品が! 今度は「詩」である。何だか、意味がわかるようなわからないような詩である。私がここに書いたテキストを元にして作った「詩」、というのを見せてもらい(この日、朗読パフォーマンスがあった)、文章の絶妙な壊れ方に感心した。これはどうやって作るのだろう?と尋ねてみると、機械翻訳を、様々な形で3回通した結果である、という。面白い道具を見つけるものだ..というか、鶯は、最新技術により生み出されたツールを、思いもよらないやり方で使いこなしてしまう。そもそも彼女が展覧会を開くきっかけとなったのが、iPhoneのお絵描きソフトとの出会いであり、その見事な使いこなし具合と、思いもよらない使い方で周囲を驚かせたことであったように。そしてそのような道具たちとの出会いに、常に見え隠れしているのが、平間の存在である。そもそも鶯が絵を描くようになったのは、平間の影響というか、平間にそそのかされて、であるし、翻訳詩の内容は平間がどうした、というものである。そのように、鶯の作品には常に平間の存在が感じられるのではあるが、本展では明示的に平間の作品と絡み、果敢にも平間の存在とがっぷり四つに組んだ作品を展示していた。その果敢さと大胆さにおいて、本展での鶯のパワーは圧倒的で、本展を事実上、鶯展である、と感じさせるほどである。しかも、平間の作品は見当たらないのだから。

一方、平間は「無作品」作品ばかり、8点を発表した。会場の入口に控えめに置かれた、その作品リストに気がつかなければ、「平間の作品はどこにあった?」と帰路悩まされることになるだろう。そんな危うい存在なのが「無作品」作品であるが、作品リストにより、その存在が明らかになった途端に、動かし難い存在になってくるのだ。そこには何も無いように見える。しかし、それは存在する。ただし、誰もそれを示すことはできない。また、誰もそれを持ち帰ることはできない。この展覧会で、いま、ここにしか存在しない。と、思うと、この展覧会の空間そのものが、あるいは展覧会そのものが、平間の作品のようにも思えてくる。鶯のすべての作品を通じて、平間はその存在を露にする。平間の存在なくしては、この展覧会は成立しない。そういう意味では、本展は平間展である。たとえ、平間の作品が見当たらなかったとしても。

さて、2人展の後は、いよいよ平間の個展だそうである。どうなることやら。